茨木のり子「倚りかからず」

もはや
できあいの思想には倚りかかりたくない
・・・
もはや
いかなる権威にも倚りかかりたくない
ながく生きて
心底学んだのはそれぐらい
じぶんの耳目
じぶんの二本足のみで立っていて
なに不都合のことやある


倚りかかるとすれば
それは
椅子の背もたれだけ

 殊にそう感じる,ここ最近。


倚りかからず (ちくま文庫)

倚りかからず (ちくま文庫)

(2007.6.20記述)

山田昌弘「少子社会日本」

少子社会日本―もうひとつの格差のゆくえ (岩波新書)

少子社会日本―もうひとつの格差のゆくえ (岩波新書)



 「パラサイトシングル」「希望格差社会」などで有名な家族社会学者,山田昌弘氏の少子社会分析の本。
 少子化と言えば経済学の観点からの議論が多く,それはそれで重要なものの,何となく辟易としていましたが,この本では社会学者らしくより幅広い文脈から分析しています。特に山田氏も「少子化をめぐるタブー」と呼ぶ,各人の魅力と結婚との関係,経済格差と結婚との関係,若者のセックスの変容という3点からのアプローチはこの本の白眉です。
 少子化は単なる経済問題ではなく,「時代の雰囲気」の感じられる一つの社会現象なのです。
(2007.6.20記述)

ルムンバの叫び

ルムンバの叫び [DVD]

ルムンバの叫び [DVD]



 レンタルビデオ屋で見かけて借りてきました。1960年前後のコンゴを描いた,ドキュメンタリータッチの映画です。
 中央アフリカコンゴ民主共和国は,現在では軍事政権による独裁国家として,貧困と飢餓の激しい地域として悪名の高い国です。しかし,コンゴにもかつて熱気に包まれ希望に夢溢れた時期がありました。1960年,後に「アフリカの年」と呼ばれることになったこの年に,コンゴ宗主国ベルギーから独立し,国家として新たな道を歩もうとしていました。その独立運動を先導し,コンゴの初代首相となったパトリス・ルムンバ(1925−61)がこの映画の主人公です。
 ルムンバはもともと郵便局員でしたが,弁が立つことからベルギー人に目を付けられてビール工場に勤めるようになり,そこに勤めながら政党を結成,第1回選挙で過半数を獲得し,首相に任命されます。しかし,独立を認めながらも利権を保持したいベルギーの策略により,豊富な鉱物資源をもつカタンダ州が独立宣言をし,軍部は統制がとれないなど混乱が続き,ついにアメリカは軍を率いているモブツに接近してクーデターを起こさせ,ルムンバは失脚の後,暗殺されてしまいます。独立をめざし,独立後は様々な部族からなるコンゴをネーション-ステートとして一つにまとめあげようと情熱を傾けるルムンバでしたが,結局は先進国の利害によってその道は絶たれてしまったのです。コンゴはその後,モブツの軍事独裁政権のもと国名を「ザイール」と変え,最初に書いたような状況に陥ります。
 もちろん,ルムンバがめざしていたものが正しかったかどうかはわかりません。しかし,コンゴの一つの情熱が絶たれたことは,もしかするとコンゴの人たちにとって大きな損失だったかもしれません。「ホテル・ルワンダ」でもそうでしたが(id:pton:20060820),先進国の利害関係と無関心に翻弄されるアフリカの無力さ痛々しく表現されています。
 ちなみに映画では,ジョセフ・カバセレ(グラン・カレ)のアフリカン・ジャズの当時の曲が,独立前夜の熱気を表現しています。特にアンデバンダンス・チャチャチャ(独立チャチャチャ)はコンゴの独立を祝した曲です。当時はコンゴのポピュラーミュージック(ルンバ・コンゴレーズと呼ばれていました)も最盛期を迎え,汎アフリカ主義的な音を響かせていました。
やっぴさんのHP…「ルムンバの叫び」や「ホテル・ルワンダ」の歴史的な背景について分かりやすく説明されています。
(2007.6.20記述)

ティナウィリン「アマン・イワン」/トゥーマスト「イシュマール」

アマン・イマン〜水こそ命

アマン・イマン〜水こそ命

イシュマール

イシュマール

 ここ数年ワールドミュージック界ではブームとなっている,サハラ砂漠トゥアレグ人の音楽,通称「砂漠のブルース」(by 中村とうよう)から,今年も快作が2作登場。ティナウィリンはベテランらしく,前作(asin:B000AZ6LTY)に続いて安定した出来。前作よりもサウンドも完成度が高いが,かわりに前作のような野性味は薄れたか。トゥーマストはこれがデビューアルバム。フランスで活動しているということで,ティナリウェンよりもロックっぽい仕上がり。
 「砂漠のブルース」は,何よりギターのアンサンブルがかっこいい。それと,戦闘的な歌いっぷりと歌詞。歌詞は,トゥアレグとしての自覚を訴えるものや,貧しさ・戦争について歌ったものなど。そういえば,こういう前傾姿勢な音楽にしょっちゅうはまっている。
(2007.5.21記述)

ダーウィンの悪夢

 渋谷のシネ・ラ・セットで見てきました。
 内容は,タンザニアビクトリア湖岸の町を舞台に,グローバリゼーションの悪循環を描いたドキュメンタリー。半世紀ほど前,ビクトリア湖ナイルパーチという魚が放たれ,現在ではヨーロッパや日本に輸出されている。ナイルパーチを加工する工場は潤い,多少の雇用も生んだが,いっぽうで肉食性のナイルパーチによって湖の生態系は乱れ,環境は汚染される。湖沿岸の町には仕事を求め各地から多くの人々が集まるが,雇用にあふれる者も多い。ナイルパーチの肉は地元の人々の口には入らず,肉を切り落とした頭や尾などは劣悪な環境で調理され,貧しい人々の口に入っている。HIVの蔓延で多くの人間が死に,ストリートチルドレンが町に溢れる。眼前の恐怖から逃れるためストリートチルドレンはシンナーや薬物に手を出す。ナイルパーチを先進国へ空輸する飛行機は,積み荷が空の往路で武器を先進国から途上国へ運ぶ役割を果たしている。その武器は紛争で用いられ,新たな貧困を生む。抜け出したくても抜け出せない,この悪循環。
 といっても,この映画はグローバリゼーションにおける「南」の国々の貧困の構造を明らかにしているわけではない。ましてや半世紀前に放たれたナイルパーチがすべての元凶であるわけでもない(この映画の日本語版HPやパンフレットではさもそのような記述をしているが,誤解を生みやすい記述である)。この映画が描こうとしているのは,グローバリゼーションの悪循環に巻き込まれてしまっている人々の顔と言葉をドキュメンタリー映画というかたちにまとめることで,目に見えない現象である「グローバリゼーション」を,高度に抽象化させたかたちで示すことにあるのだろう。一言で言えば,「グローバリゼーションの悪夢」を描いた映画,と表現できるかもしれない。
 「自分がこの悪循環の一鎖を担ってしまっているのではないか」と悩みながらも生活のためにナイルパーチを空輸しつづけるロシア人パイロット。そのようなパイロットたちやこの地を訪れる白人を相手に売春し,客の暴力で亡くなってしまう黒人女性。毎月何十人もの村人がHIVで亡くなるのを目の当たりにしながらも「コンドームを勧めることはできない」と語る,湖畔の漁村のカトリック司祭。危険なナイルパーチ工場の夜警をしているが,「戦争が起こってほしい。戦争はチャンスだ」と充血した目で語る元兵士…。この映画では,「グローバリゼーションの悪夢」のなかに生きるさまざまな人々が登場する。私を含む先進国の人間も,同じグローバリゼーションのなかで生きているはずだが,彼/彼女らの声が聞こえてくることはまずない。
 いったい誰が彼/彼女らの「証言」(d:id:pton:20060820)に耳を傾けようとしているのか。しかし,いっぽうで,いったい誰が彼/彼女らの声に耳を傾けまいと望んでいるのか。いつになれば,彼/彼女らの証言は真に聞き届けられるのか。
「ダーウィンの悪夢」公式サイト


(2007.5.21記述)

ボードリヤール死去

仏を代表する思想家,ジャン・ボードリヤール氏死去
 現代フランスを代表する思想家で,消費社会や情報社会への鋭い批評で知られた社会学者のジャン・ボードリヤール氏が6日,パリで死去した。77歳。死因は明らかにされていない。
 仏北部ランスの農家に生まれた。ドイツ語教師としてマルクスブレヒトを翻訳。マルクス主義記号論精神分析などを融合して現代社会を分析する独自の視点を確立した。
 パリ大学社会学を教える傍ら,論評活動を展開。しばしば賛否両論の物議を醸した。消費社会に関して「物の体系」「消費社会の神話と構造」などの著作を発表。モノの価値よりも,ブランドや記号としての価値に動かされる消費社会の到来をいち早く予見して,世界的に大きな影響を与えた。
 91年の湾岸戦争直後に「湾岸戦争は起こらなかった」と題する論文を発表。戦争の中でのメディアや情報の役割を問い,賛同と批判が入り交じった広範囲な議論を巻き起こした。01年の9・11テロに際しては,テロの背後にある米国自身の問題を論じるなど,批判的知識人として最後まで世界の現実とかかわり続けた。
 著作は約50点に達し,多数が日本でも翻訳されている。写真家としても知られ,日常生活を切り取った作品を発表。写真論に「消滅の技法」がある。(asahi.comより)

 「消費社会の神話と構造」は名著でした。今でも古びていません。写真家だったとは知らなんだ。


消費社会の神話と構造 普及版

消費社会の神話と構造 普及版

ヴェネチアより


↑現地で’Rio’と呼ばれる運河は,全部で177あると言われる。

美しい少年の足跡を追って,アッシェンバッハはある午後,病んでいる都のごたごたした中心地へ没入して行った。この迷宮の裏町や河や橋や小さい広場が,あまりに互いに似通っているため,彼は見当がつかなくなったうえ,方位さえも不確かになって,ただひとえに,慕いつつ追い求めているその姿を見失うまいとのみ念じていた。(実吉捷郎訳「ヴェニスに死す」)




ヴェネチアの「メインストリート」,カナル・グランデ(大運河)。ヴァポレット(水上バス)より撮影。



↑ザッテレの河岸。夕暮れで黄金色。

大運河のアッカデミア前で「ぽんぽん蒸気」(中略)を降り,ドルソドゥーロ地区を横断するかたちで5分ほど歩くと,思いがけなく広々とした明るい水面が,淡い秋の午後の光をうけて目の前に開けた。イタリア人にことのほか愛されている18世紀の風景画家フランチェスコ・グアルディがくりかえし描いているジュデッカ運河である。どこにいっても大小の運河やカッレと呼ばれる暗くて細い石畳の路がせせこましく入りくんでいて,迷路にまよいこんで出られなくなったような気にさせられてしまうヴェネツィアに慣れた目には,この運河のおだやかで日常的な明るさにほっとこころがなごむ。(須賀敦子「ザッテレの河岸で」)




↑2月の中旬はカーニバルの真っ最中。マスクをつけて仮装した人たちが街じゅううろうろ。



↑西日に輝くサン・マルコ寺院

かくして彼はふたたび,あの最も驚くべき埠頭を見た。この共和国が,近づく航海者たちのうやうやしいまなざしに向かって掲げてみせる,幻想的な建物のあのまばゆい構図を見たのである。――宮殿の軽快な華麗さとためいき橋と,水ぎわの獅子と聖者のついた円柱と,童話めいた殿堂のきらびやかに突き出ている側面と,門道と大時計とを見とおす眺めと――そして彼は,じっと見やりながら,陸路をとってヴェニスの停車場につくというのは,一つの宮殿の裏口から入るのにひとしい,そして人はまさに,今の自分のごとく,船で,大海を越えて,都市のなかでの最も現実ばなれのしたこの都市に到着すべきだ,と考えた。(実吉捷郎訳「ヴェニスに死す」)




↑夕暮れのサン・ジョルジョ・マッジョーレ島。サン・マルコ広場の鐘楼より。


 まさに「ヴェニスの毒」に冒されたといっていいほど,魅了された3日間でした。


ヴェニスに死す (岩波文庫)

ヴェニスに死す (岩波文庫)

地図のない道 (新潮文庫)

地図のない道 (新潮文庫)

(2007.3.8記述)