ホテル・ルワンダ

 早稲田松竹で,遅ればせながら,「ホテル・ルワンダ」を観てきました。
 とてもいい映画でした。ルワンダ内戦の最中,首都キガラの高級ホテル,ミル・コリンズの支配人が,民族虐殺から逃げてくる1000人以上もの人々をフツ族ツチ族関係なくホテルに匿い,命を救うという物語です。虐殺の無惨さ,国連の無力さがうまく表現されています。また,主演のドン・チードルが,人々の信頼が厚く頼りになるが,一方で人間としての弱さをもつという役回りをうまくこなしているのも印象に残りました。「観に行ってよかった」と心から思える映画でした。


 映画の評価とは別に,心に引っかかったことが一つあります。映画が終わった後,連れに「これって結局,お金持ちが助かったという話だよね」と指摘され,ドキッとしました。確かに,主人公が経営していたホテルは国内外の要人が宿泊するような高級ホテルで,宿泊客はもちろん,主人公がホテルに連れて行った近隣の住民も上層階級であり,確実にそうでないと言えるのは,赤十字の職員が救出した孤児たちです。この映画では,2時間ほどの映画という形にまとめている以上,ルワンダ大量虐殺の証言としてはどうしても見えない部分が多くあります(だからといってこの映画の価値が下がるわけでは当然ありませんが)。本当の「証人」というものが存在するとすれば,虐殺で殺された人々とでも言えるでしょうか。
 アウシュヴィッツの生存者にして,戦後アウシュビッツに関する作品を書き続けたプリーモ・レーヴィは,『これが人間か』(邦訳題;『アウシュヴィッツは終わらない』)で,「人間には確かに,溺れる者と助かる者がある」と語っています。レーヴィは,同書で自分のアウシュヴィッツ以後の人生を「作家=証人」としているいっぽう,同時に自分がその「助かる者」であったために証言が根源的には不可能であることに気づいていて,これを「回教徒(アウシュヴィッツで自らの正体も分からないくらいに衰えた死の寸前の人間)こそは完全な証人である」と表現しました。イタリアの政治哲学者ジョルジョ・アガンベンは,これを「人間は非-人間であり,人間性が完全に破壊された者こそは真に人間的である」,つまり「人間的なものを完全に破壊するのは不可能であること,つねにまだ何かが残っているということである。証人とはその残りのもののことなのである」という哲学的テーゼに読み替えています。アガンベンに従うならば,証言とは「助かる者」と「溺れる者」の,いわば境界にあるといえます。ほんとうに「人間らしい」〈人間〉(つまりある意味で理念型としての人間)というのは,生者でもなく死者でもなく,その境界に存在するわけで,「証言」とは,靖国の”御柱”のみを「証言者」として崇拝するのでもなく,「歴史的事実」に拘泥するのでもなく,その〈人間〉の”声”に”耳を傾ける”ことです。
 ルワンダのジェノサイドの証言に耳を傾けるざるをえない,ということは,「人間」の証左であると私は思っています。「ホテル・ルワンダ」に対してイギリスのChannel 4は,「この映画のカタルシスに酔い,良心の呵責を覚え,家に帰って続編『ホテル スーダン』の公開を待て」と評しそうです。これは,ダルフール紛争において第2の奇跡が起こることを期待しているとともに,ルワンダの証言に世界中の耳が向けられず,ルワンダの虐殺のときのような「先進国の無視」をことを皮肉っているのでしょう。
 日中/太平洋戦争のときに星の数ほどいた「回教徒」の「証言」に,人はどれだけ向かい合ってきたでしょうか。「過去の真のイメージは,ちらりとしかあらわれぬ。一回かぎり,さっとひらめくイメージとしてしか過去は捉えられない。認識を可能とする一瞬をのがしたら,もうおしまいなのだ。」(ベンヤミン「歴史哲学テーゼ」)


 →「ホテル・ルワンダ」公式サイト




アウシュヴィッツの残りのもの―アルシーヴと証人

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ボードレール 他五篇 (岩波文庫―ベンヤミンの仕事)

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(2006.9.11記述,2007.4.20修正)